mezash1taiMoviのブログ

ミニマル生活めざし隊 2番隊組頭 Moviのブログです。雑念と物があふれた我が家にミニマル生活を呼び込むべく、こんなのあったらいいな、できたらいいなを考えるブログです。

全自動シャワーシステム

人の数が減りつつある今日この頃、なんだかデカイイヌを連れてる人が

増えてきた。

 

デカいイヌは元気だ。運動量もハンパない。時に泥まみれになることも。

シャワーもひと苦労。1匹だけならまだしも、多頭飼いしようものなら、

洗っても洗って終わらないこともあるだろう。

 

こんなとき欲しくなるのが、「全自動シャワーシステム」。

スマホ操作で肛門絞り、シャンプー・リンスから乾燥までオートにこなし、

ディープラーニングで個々の好みに合わせた洗い加減を自動検出&記憶。

使えば使うほど気持ちよく洗ってくれます。

おまけにスマホでいつでも様子を見ることができる安心見守り機能付き。

高齢化社会対策助成金と合わせて、リーズナブルな価格でお使い頂けます

、、、多分。

 

歳を取っても大好きなものは変わりません。

大型犬、超大型犬好きと愛犬の幸せ安心健康ライフに是非欲しい一台だ。

 

ネットワークサービス

これからの時代を制するもの、ネットワークサービス。

ユーチューバーもビジネスも今やインターネットなしには

拡大できない時代だ。

 

これからを制するのは、宇宙を含めたインターネットサービスだ。

Skypeのように軽快で高品質で安価な通信手段が地球外でも使えたら

その会社は1000年続くだろうと、ぼくは思う。

魔法のようだ

Googleホーム。

実に素晴らしい。

 

その昔、アブラカタブラと唱えていたのと同じように

声だけでラジオが聴ける。

ピカチュウとおしゃべりできる。

調べたいことも言葉だけで調べられる。

 

すべての情報がインターネットに集約されてれば、

言葉だけで、そこから何でもとり出せる。

そして何より、調べ物するのに会話を長々と中断して

画面に向かわなくていい。家族の時間を邪魔しない。

 

言葉で世界を創造するステキなアイテムだ。

 

今はまだまだ 「お役にたてそうにありません。」な

ことが多いから、機能の向上を心から望みます。

 

携帯発電機

iPhoneAndroidiPad、galaxyなどなど、世界はカラフルで高速で随分と薄くなった。

ポータブルで物が少なくてある種快適に(満員電車では不快に)なった。

なのに、これらの機器の充電は、未だに有線だ。

電池が切れると会話の途中でもコンセントのところへまっしぐら。そしてその場から

しばらく動けなくなる。

 

そこで欲しくなるのが、「携帯発電機」。

理想はマウスの受信機サイズ。デバイスに挿したままにしておけるのが良いよね。

今のご時世、電波は飛びまくってるから、それを機動力にしてコイルに電流を流し、

発電する。要はいかに巻き数を大きく、かつサイズを小さくできるかってことですね。

物理的にコイルにするでもよし、ハードディスクが集積回路に置き換わったように、

素材を工夫するでもよし。

ウェアラブルが当たり前になって久しいけれど、ますます電気供給が重要になって

いくのは間違いないですね。

 

人工知能の悲劇~彼らは心を持つのかという学術的好奇心の不幸〜

AIが世間を賑わせて久しいが、今もって彼らが心を持つかという

生産性のない話題が紙面を飾ることがある。

 

これについては、私もずいぶん仲間と議論を交わしたことがあるが…

結論から言えば、不幸しか生み出さない議論ではないだろうか?

 

① AIは極めて優れた技術だが、反応は似せることがあっても、

     機体に悪影響を及ぼすものであっては困る。

     機械は、人間を単調、危険、重労働な物から解放するために

     作成された物であって、人間と同じように疲れた、痛い、怖い

     といった"感情"を持たれては、採算に合わないのだ。

 

② アンドロイドやアイボなどの愛玩機体についてはあるいはそれに

     似せた反応を提示するよう、プログラムすることがあるだろうが、

     人体に危害を及ぼす可能性がある場合、本当にメーカー側に責任

     を問わないと約束できるだろうか?

 

故に、実用的なAIとは、あくまでも"人類に有益"な枠組みの中で自由

なのであり、人が持つ心とは本質的に異なったものであると言わざる

を得ないのではないだろうか?

しかし、AIが持つ心は、より狭い枠組みであるが故に、きっと本物の

心よりも理想的で美しいものであるに違いないのである。

ミニマル生活の質的基準

以前のコラム(2017年4月5日参照)で、

端末評価のミニマル生活的基準を考察してみた。

今日は生活そのものの質について、ミニマルな

視点から見てみよう。

 

そもそも「生活ってなんだ?」。

カンタンだ。「生」きるための「活」動だ。

ってこたぁ、ミニマル生活とは、

①ミニマル「に」生きる活動なのか?

それとも、

②ミニマル「で」生きる活動なのか?

はたまた、

③ミニマル「を」生きる活動なのか?

 

なんかとんち問答みたいだ。作麼生、説破。

①は、とにかく全てを最小に生きてゆく活動。

コンパクトに生きると言い換えられそう。

ちっちゃくちっちゃく生きてく感じ?

物理的視点からすると、グローバルミニマムに

落ちるのが正しい選択でしょう。

(2017年5月6日の記事参照)

 

それに比べて②は、少ない物で生きる活動。

目指すは"何かの最大化"でしょう、きっと。

少ない資源を最大限活かしきる!

高効率な生活スタイル?

 

じゃぁ、③は?

 ズルい言い方をすると、①と②の掛け合わせ。

ベイズ統計のように状況を鑑み判断する変幻

自在に生きる活動、と言えるのかな。

いわゆるローカルミニマムで高効率に生きる。

 

こだわりってものを持って来れば、美しいのは

①(質素倹約、御坊様のような生活)or②(持ってる

ものは必要最小、あとは外部に頼る、ある意味

お金のかかる生活)。

この二つは、世界のどこにいっても"変わらない"

物理の視点でもとても美しい生活だ。

 

一方、 ③は?

察しの良い方は、もうわかってるだろう?

 

話が長くなった。今日はここまで。また次回。